ルート13 · 道すがら出会う物語

ケープタウン → カラハリ砂漠 → クルーガー国立公園

この旅で出会う26の物語です。GPS音声で案内される歴史・文化・自然の解説を、ここでは文章でひと足先にお楽しみいただけます。

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ケープタウン

サラ・バートマン — スレーブ・ロッジ

いま通り過ぎているこの建物、今日ではスレーブ・ロッジという名前の博物館ですが、もともとは奴隷たちが暮らしていた宿舎でした。ここにはサラ・バートマンという一人の女性の物語が展示されていて、一度聞いたらなかなか忘れられない話なんです。サラはイースタン・ケープのガムトゥース川流域で生まれたコイコイ族の女性でした。ケープタウンで使用人として働いていた彼女に、1810年、あるイギリス人とケープタウンの商人が近づき、ロンドンに行けば大金を稼げると持ちかけました。こうして彼女は大西洋を渡り、ロンドンのピカデリー通りに立たされ、「ホッテントット・ヴィーナス」という名で見世物にされたんです。当時のヨーロッパ人の目には珍しく映った彼女の体つきが、好奇の的になったわけです。イギリスの奴隷制廃止論者たちが彼女を救おうと裁判まで起こしましたが、強制されていた可能性が高い状況でも、彼女は法廷で自分の意思で来たと証言し、結局解放されませんでした。1814年にはフランスに売られ、パリでも同じように見世物にされ、当代きっての博物学者ジョルジュ・キュヴィエの研究対象にもなりました。そして1815年、わずか25歳ほどでパリで亡くなりますが、キュヴィエは彼女の遺体を解剖し、脳と生殖器を標本にしてしまいました。その標本はなんと1974年まで、つまり彼女の死から160年近くもの間、パリの人類博物館に展示されていたんです。彼女がようやく故郷の地に戻って埋葬されたのは2002年、ネルソン・マンデラ政権がフランス政府に正式に要請した後のことでした。偶然にも、その返還式が行われた日が南アフリカの「女性の日」だったというのも、知ってしまうと心に長く残る巡り合わせです。

カミサ — 街の下を流れる隠れた川

運転しながら、ちょっと想像してみてください。いまこの街の下には「カミサ」という名の川が流れているんです。ケープタウンがなぜこの場所に築かれたのか。実はテーブルマウンテンの美しい景色のためではありませんでした。本当の理由は水です。山から流れ落ちる新鮮な湧き水があり、コイコイ族はこの流れを「甘い水」、カミサと呼んでいました。1652年、オランダ東インド会社がアジアへ向かう船のための補給基地を築く場所を探していて、まさにこの水があったからここを選んだんです。そして驚くことに、370年以上たった今もこの川は消えていません。街の地下水路を今も流れていて、ヘリテージ・スクエア近くの歩道に耳を澄ませると水の音が聞こえるほどです。ビクトリア時代に造られた地下トンネルをたどって、この川を歩いて探検するツアーまであるんですよ。華やかなビル群の下で、この街を生んだ古い川が今も静かに流れている——考えるほど不思議だと思いませんか?

ファン・リーベックのアーモンドの垣根 — カーステンボッシュ

カーステンボッシュ植物園の奥へ進むと、一見なんの変哲もない木の垣根に出会います。でもこの垣根には、360年以上にわたる物語が隠れているんです。1660年、ケープ植民地の初代総督ヤン・ファン・リーベックは、コイコイ族の襲撃や家畜の盗難を防ぐとして、入植地の境界に沿って野生のアーモンド、つまり苦みのあるアーモンドの木をびっしりと植えました。表向きは防御用の垣根に見えますが、実際にはコイコイ族を植民地の外へ締め出そうとした最初の隔離政策だったと言えます。そして驚くことに、その木の一部が今も、なんと360年以上生き延びて、カーステンボッシュ植物園の中にそのまま立っているんです。南アフリカで最も古い「植物でできた史跡」として保存されているわけです。美しい庭園を歩いていてふと出会うこの古びた木の幹が、実はこの国の人種隔離の歴史が始まった最初の場面だと知ると、景色が少し違って見えるかもしれません。

喜望城 — 偽りの降伏と灰色の服の女

あの星形をした要塞、喜望城(キャッスル・オブ・グッドホープ)と呼ばれるこの建物は、南アフリカに残る建物の中で最も古いものです。オランダ東インド会社が1666年から1679年まで、13年かけて築きました。要塞の地下にはかつて囚人を閉じ込めた地下牢があり、ここから港まで続く秘密の通路があったという伝説も伝わっています——おそらく密輸や人目を忍ぶ脱出に使われたのだろう、という話です。でも、この要塞でいちばん有名なのは別のものです。それが「灰色の服の女」の怪談。地下牢で処刑された女性の霊だという説もあれば、19世紀のある司令官の愛人だったという説もあります。面白いのは、これがただの昔話で終わらないことなんです。実際に夜間警備に立つ衛兵たちが、今でもときどき目撃談を報告しているという記録が残っているんですよ。350年以上たつ要塞の中で、今この瞬間も誰かが、あの灰色の服の女と出くわす準備をしているのかもしれません。

1901年のペストとンダベニ

南アフリカの人種隔離、アパルトヘイトといえば、1948年を思い浮かべる方が多いですよね。でも実は、人種を街の外へ追い出す試みはそれよりずっと前に始まっていました。1901年、ケープタウンの港でペストが発生しました。後に判明した本当の原因は貨物船に乗ってきたネズミだったのですが、当時の当局は見当違いにも黒人の港湾労働者を感染源だと決めつけました。そしてそれを口実に、市内に住んでいた黒人住民を全員、メイトランド近くの「ンダベニ」という新しい居住区へ強制移住させたんです。これが、その後数十年続く黒人居住区、つまりタウンシップ隔離政策の最初の例でした。アパルトヘイトが公式に始まったのが1948年ですから、この出来事はなんと47年も前のことです。一匹のネズミが生んだ誤解が、この街の人種隔離の歴史を半世紀近くも早めてしまったわけです。

ディストリクト・シックス — 取り壊されたまま建て直せなかった街

いま窓の外に見えるあの広い空き地、一見ただ工事が止まった土地のように見えますが、実はここにはもともとケープタウンでいちばん活気のある街がありました。名前はディストリクト・シックス。黒人、カラード(混血)、インド系、ユダヤ系の人々が一緒に暮らす、この街で最も多彩な場所でした。ところが1966年、政府はこの土地を「白人専用地区」に指定してしまいます。それから1982年までの16年間に、なんと6万人にのぼる住民がケープ・フラッツという郊外へ強制的に追い出され、彼らが住んでいた家や建物は一つ残らず取り壊されました。でも、ここにはどんでん返しがあります。この強制撤去が国際社会からあまりにも強い非難を浴びたため、政府でさえ、この空き地に計画していた白人向け住宅を建てるとは発表できなかったんです。だからこの土地は何十年もの間、ほとんど空き地のまま残っているんです。いま私たちが見ているこのがらんとした風景そのものが、暴力の痕跡であると同時に、その暴力が完全には成功しなかった証でもあるわけです。今はディストリクト・シックス博物館が、当時の街の物語を伝えています。

囚人船「ネプチューン」事件

1849年、大英帝国はオーストラリアで行ったのと同じように、ここケープ植民地も囚人を送り込む流刑地として使う計画を立てました。そこで囚人船「ネプチューン」号に囚人を乗せ、テーブル湾へ送り込んだんです。ところがこの計画は、ケープタウン市民の思わぬ抵抗にぶつかります。商人たちは船への物資の供給をいっせいに拒否し、労働者たちは囚人が船から降りること自体を阻止しました。こうしてなんと5か月もの間、ネプチューン号は荷を降ろすこともできず港に足止めされたんです。結局イギリス政府が折れ、船に乗っていた囚人たちはそのままオーストラリアへ送り返されました。歴史家たちはこの出来事を、この街で起きた最初の大規模な市民の抵抗と評価しています。一発の銃弾も撃たず、ただ協力しないというだけで、帝国の計画を頓挫させたわけです。

シグナル・ヒルの正午の大砲

毎日正午になると、この丘から大砲の音が一度鳴り響きます。初めて聞く人はびっくりするイベントですが、実はこの大砲は観光客のためのショーではありません。1806年にこの大砲が初めて設置されたときの目的はただ一つ、港に停泊するすべての船の航海用時計を正確に合わせることでした。今でこそGPSもスマートフォンもありますが、当時はそんなものあるはずもありません。ですから街全体、そして港のすべての船にとって、この大砲の音がそのまま標準時だったんです。そして驚くのは、この伝統が200年以上、一度も欠かさず続いていること。今この瞬間も、正午になれば必ずあの丘から大砲が鳴るでしょう。世界で最も古い時報の伝統の一つが、まさに私たちの目の前で続いているんです。

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スプリングボック

コーンウォールから渡ってきた鉱夫たち

いま通っているこの乾いた砂漠の町、スプリングボックとオキエップ一帯を見てみてください。今はただの荒涼とした原野に見えますが、19世紀にここで銅の採掘ブームが起きたときは、まったく違う風景でした。イギリスのコーンウォール地方で代々鉱山の仕事をしてきた熟練の鉱夫たちが、「カズン・ジャックス(いとこのジャックたち)」という愛称で呼ばれながら、地球の反対側のこの砂漠まで渡ってきたんです。何か月も船に揺られてやって来て、自分たちが知っている鉱山技術をこの見知らぬ土地にそのまま根付かせたんですね。そして不思議なことに、その痕跡が今も残っています。今でもこの地域の一部の家系の姓を調べると、コーンウォール系の血筋の名残が見つかるそうです。アフリカの砂漠の真ん中に、イギリスの田舎町の文化がそのまま移植されたわけです。想像してみると、なかなか不思議で面白い組み合わせだと思いませんか?

消えたアンテロープの大移動

この町の名前、スプリングボックは、実はアンテロープ(レイヨウ)の名前から来ています。19世紀までは、この一帯で「トレックボッキング」と呼ばれる壮大な光景がたびたび見られました。スプリングボックの群れが何十万頭も連なって、何日もかけてこの原野を横切っていく光景です。想像もつかないほどとてつもない規模だったそうです。でも今では、そんな大移動は見られません。農場を仕切るフェンスがあちこちに建てられ、無秩序な狩猟が続いたことで、その壮観は完全に消えてしまったんです。いま私たちに残っているのは、そのアンテロープの名を冠した町ひとつだけ。かつて大地を埋め尽くした命の波が、今では地名の中にだけ残っているわけです。

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アウグラビーズ滝国立公園

名前そのものが音から生まれた

この滝の名前「アウグラビーズ」は、コイ族の言葉で「大きな音を立てる場所」という意味です。オレンジ川が18キロにわたる花崗岩の峡谷で細くなって流れ、56メートルの断崖から落ちるのですが、その轟音は何キロも離れた場所まで聞こえたそうです。乾いたカラハリ砂漠の真ん中でこれほど大きな水音がするということ自体、昔の人々にとっても不思議な体験だったでしょう。さあ、ジョバーグに戻れば、この長い旅も終わりです。

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アピントン

砂漠の真ん中に川の水で開いたブドウ畑

いま通っているこのあたり、実はカラハリ砂漠なんです。ところが19世紀の入植者たちがオレンジ川の水を引いて大規模な灌漑農業を始め、ブドウ畑ができました。一本の川が砂漠の真ん中に農業の集落をつくり出したわけで、今でもこの地域は南アフリカのレーズン生産の中心地です。公園に入る前に、ここで最後のまとめ買いを忘れないでくださいね。

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カラハリ・トランスフロンティア公園

国境線を消した最初の公園

いま入っていくこの公園は、もともと南アフリカとボツワナがそれぞれ別々に管理していた二つの公園でした。南アフリカのカラハリ・ゲムズボック国立公園と、ボツワナのジェムズボック国立公園です。2000年にこの二つを一つにまとめ、アフリカ初の公式なトランスフロンティア、つまり国境をまたぐ公園になりました。動物たちはもともと国境なんて気にせず砂漠を行き来していたのですが、人間がようやくその現実を認めて、二つの国の公園管理を一つにしたわけです。

ビッグ5はいないけれどライオンはたくさんいる公園

カラハリ・トランスフロンティア公園にはゾウもサイもバッファローもいないので、「ビッグ5」の公園には入りません。でも、黒いたてがみのカラハリライオンとチーターの観察にかけては、クルーガーより評判が高いんです。いま通っているこのノソブ川の川床で、赤い砂丘のてっぺんに立つ黒いたてがみの雄ライオンの姿を見られたら、それこそがこの公園を代表する場面です。

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クルマン

砂漠の真ん中で1日2,000万リットルが湧き出る泉

カラハリ砂漠の入り口の乾いた風景に似合わず、クルマンには1日におよそ2,000万リットルの水が湧き出る天然の泉があります。「命の目」というニックネームがついたこの泉のおかげで、長い間このあたりの人々と動物の両方にとって、砂漠の真ん中の命綱の役割を果たしてきました。

聖書を翻訳するため砂漠までやって来た宣教師

19世紀のスコットランド人宣教師ロバート・モファットは、この辺鄙な砂漠の町に住み着き、ツワナ語に聖書を翻訳する作業を行いました。当時、ヨーロッパからこれほど辺鄙な場所まで来て生涯を捧げた宣教師は珍しく、彼の仕事は後に南部アフリカの宣教史における重要な転換点と評価されています。

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グラスコップ

金が尽きると木を植えた町

いま通っているこの町を囲む森、実は自然林ではありません。1880年代のゴールドラッシュで生まれたグラスコップは、金がすぐに尽きると、まったく別の道を選びました。町の人々がまわりの山に松やユーカリを大規模に植えて、木材産業を興したんです。そのおかげで、鉱山町のほとんどが消えていったのとは違い、この町は今まで生き残ってきました。

切り立った断崖が再び人を呼び寄せた

木材産業で一世紀を持ちこたえたグラスコップは、20世紀後半にもう一度生まれ変わりました。町を囲むこの険しい峡谷の地形が、今度はジップラインや高所リフトといったアドベンチャーツーリズムの舞台になったんです。鉱山でも製材所でもなく、断崖そのものが町の新しい資源になったわけです。

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ゴッズ・ウィンドウ

神が見下ろす窓と呼ばれた果てしない眺め

この展望台の名前は「神の窓」、ゴッズ・ウィンドウです。ドラケンスバーグの断崖の上から、ローフェルトの低地が霧の向こうに果てしなく広がる眺めから、この名前がつきました。天気が良ければ、あの下の低地の向こう、遠くクルーガー国立公園の境界まで見渡せるそうです。

訪れるたびに違う顔を見せる窓

この窓は同じ場所なのに、訪れるたびに違う景色を見せてくれます。断崖の下から上がってくる霧や雲が刻々と視界をさえぎったり開いたりするので、訪れる時間や天気によってまったく違う印象の眺めになるんです。だから地元のガイドたちは朝早い時間の訪問をすすめます。午後になるほど、霧が断崖を包み込むことが多いからです。

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バークス・ラック・ポットホールズ

金をほとんど見つけられなかった人の名がついた名所

この地形の名前には「バークの幸運」という意味が込められていますが、実はバークという人はここで金をほとんど見つけられませんでした。19世紀の採掘者トム・バークの名前から取ったもので、当時の仲間たちが運がないとからかうようにこの地名をつけたという話が伝わっています。いま見えるこの円筒形のくぼみは、実は金とは関係ありません。何千年もの間、川の水の渦による浸食が花崗岩を削ってできた、自然の地形なんです。

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ピルグリムズ・レスト

町全体が博物館になったゴールドラッシュの町

いま通っているこの町は、町全体が博物館です。1873年に金が見つかってできたピルグリムズ・レストは、最盛期には何千人もが押し寄せたゴールドラッシュの町でした。ところが金が尽きた後も建物が取り壊されずにそのまま残り、今では町全体が国の遺産に指定されて、1870年代の姿をそのまま保存しています。

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ブライデ・リバー・キャニオン

「悲しみの川」と「喜びの川」 — 死んだと思われた仲間たち

いまこの峡谷を流れる二つの川の名前は「悲しみ」と「喜び」です。19世紀、ボーア人のトレッカーの一団がこのあたりを通ったとき、偵察に出た仲間の一部が長い間戻ってきませんでした。残った人々は彼らが死んだと思い、近くの川を「トルール」、つまり悲しみと名づけました。ところがしばらくして偵察隊が生きて戻ってきて、合流した地点の川は「ブライデ」、喜びと呼ばれるようになったんです。今もこの峡谷を横切る二つの川の名前に、そのときの悲喜がそのまま残っているんですね。

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スリー・ロンダベルズ

わら葺き小屋に似た三つの巨大な岩峰

あの三つの峰は、アフリカの伝統的なわら葺き小屋「ロンダベル」に似ていることから、スリー・ロンダベルズと呼ばれています。およそ2億年にわたる川の浸食が削り出した地形ですが、人がわざわざ作ったかのように精巧に見えますよね。世界で3番目に大きな峡谷であるブライデ・リバー・キャニオンの中でも、最も象徴的な風景に数えられています。

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クルーガー国立公園

狩猟を止めようとした大統領の名を冠した公園

この公園の名前は、トランスヴァール共和国のポール・クルーガー大統領から取ったものです。1898年、彼が無秩序な狩猟で激減していた野生動物を守るため「サビ動物保護区」に指定したのが始まりでした。1926年に国立公園へ正式に昇格したとき、彼をたたえて「クルーガー」という名前がつけられたんです。当のクルーガー本人は保守的な農業社会を率いた人物でしたが、100年以上続いたこの決断が、今ではアフリカ最高の野生動物保護地をつくったわけです。

サビ川がつくった野生動物密度ナンバーワンの区域

いま通っているこのサビ川は、乾季にも水が涸れないため、野生動物が絶えず集まってくる区域として知られています。キャンプのレストランのテラスに座っているだけで、川辺に集まるゾウやカバ、バッファローを観察できるほど密度が高いと言われています。

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