ケープタウン → ナミビア → ボツワナ → ビクトリアの滝
この旅で出会う49の物語です。GPS音声で案内される歴史・文化・自然の解説を、ここでは文章でひと足先にお楽しみいただけます。
ケープタウン
サラ・バートマン — スレーブ・ロッジ
いま通り過ぎているこの建物、今日ではスレーブ・ロッジという名前の博物館ですが、もともとは奴隷たちが暮らしていた宿舎でした。ここにはサラ・バートマンという一人の女性の物語が展示されていて、一度聞いたらなかなか忘れられない話なんです。サラはイースタン・ケープのガムトゥース川流域で生まれたコイコイ族の女性でした。ケープタウンで使用人として働いていた彼女に、1810年、あるイギリス人とケープタウンの商人が近づき、ロンドンに行けば大金を稼げると持ちかけました。こうして彼女は大西洋を渡り、ロンドンのピカデリー通りに立たされ、「ホッテントット・ヴィーナス」という名で見世物にされたんです。当時のヨーロッパ人の目には珍しく映った彼女の体つきが、好奇の的になったわけです。イギリスの奴隷制廃止論者たちが彼女を救おうと裁判まで起こしましたが、強制されていた可能性が高い状況でも、彼女は法廷で自分の意思で来たと証言し、結局解放されませんでした。1814年にはフランスに売られ、パリでも同じように見世物にされ、当代きっての博物学者ジョルジュ・キュヴィエの研究対象にもなりました。そして1815年、わずか25歳ほどでパリで亡くなりますが、キュヴィエは彼女の遺体を解剖し、脳と生殖器を標本にしてしまいました。その標本はなんと1974年まで、つまり彼女の死から160年近くもの間、パリの人類博物館に展示されていたんです。彼女がようやく故郷の地に戻って埋葬されたのは2002年、ネルソン・マンデラ政権がフランス政府に正式に要請した後のことでした。偶然にも、その返還式が行われた日が南アフリカの「女性の日」だったというのも、知ってしまうと心に長く残る巡り合わせです。
カミサ — 街の下を流れる隠れた川
運転しながら、ちょっと想像してみてください。いまこの街の下には「カミサ」という名の川が流れているんです。ケープタウンがなぜこの場所に築かれたのか。実はテーブルマウンテンの美しい景色のためではありませんでした。本当の理由は水です。山から流れ落ちる新鮮な湧き水があり、コイコイ族はこの流れを「甘い水」、カミサと呼んでいました。1652年、オランダ東インド会社がアジアへ向かう船のための補給基地を築く場所を探していて、まさにこの水があったからここを選んだんです。そして驚くことに、370年以上たった今もこの川は消えていません。街の地下水路を今も流れていて、ヘリテージ・スクエア近くの歩道に耳を澄ませると水の音が聞こえるほどです。ビクトリア時代に造られた地下トンネルをたどって、この川を歩いて探検するツアーまであるんですよ。華やかなビル群の下で、この街を生んだ古い川が今も静かに流れている——考えるほど不思議だと思いませんか?
ファン・リーベックのアーモンドの垣根 — カーステンボッシュ
カーステンボッシュ植物園の奥へ進むと、一見なんの変哲もない木の垣根に出会います。でもこの垣根には、360年以上にわたる物語が隠れているんです。1660年、ケープ植民地の初代総督ヤン・ファン・リーベックは、コイコイ族の襲撃や家畜の盗難を防ぐとして、入植地の境界に沿って野生のアーモンド、つまり苦みのあるアーモンドの木をびっしりと植えました。表向きは防御用の垣根に見えますが、実際にはコイコイ族を植民地の外へ締め出そうとした最初の隔離政策だったと言えます。そして驚くことに、その木の一部が今も、なんと360年以上生き延びて、カーステンボッシュ植物園の中にそのまま立っているんです。南アフリカで最も古い「植物でできた史跡」として保存されているわけです。美しい庭園を歩いていてふと出会うこの古びた木の幹が、実はこの国の人種隔離の歴史が始まった最初の場面だと知ると、景色が少し違って見えるかもしれません。
喜望城 — 偽りの降伏と灰色の服の女
あの星形をした要塞、喜望城(キャッスル・オブ・グッドホープ)と呼ばれるこの建物は、南アフリカに残る建物の中で最も古いものです。オランダ東インド会社が1666年から1679年まで、13年かけて築きました。要塞の地下にはかつて囚人を閉じ込めた地下牢があり、ここから港まで続く秘密の通路があったという伝説も伝わっています——おそらく密輸や人目を忍ぶ脱出に使われたのだろう、という話です。でも、この要塞でいちばん有名なのは別のものです。それが「灰色の服の女」の怪談。地下牢で処刑された女性の霊だという説もあれば、19世紀のある司令官の愛人だったという説もあります。面白いのは、これがただの昔話で終わらないことなんです。実際に夜間警備に立つ衛兵たちが、今でもときどき目撃談を報告しているという記録が残っているんですよ。350年以上たつ要塞の中で、今この瞬間も誰かが、あの灰色の服の女と出くわす準備をしているのかもしれません。
1901年のペストとンダベニ
南アフリカの人種隔離、アパルトヘイトといえば、1948年を思い浮かべる方が多いですよね。でも実は、人種を街の外へ追い出す試みはそれよりずっと前に始まっていました。1901年、ケープタウンの港でペストが発生しました。後に判明した本当の原因は貨物船に乗ってきたネズミだったのですが、当時の当局は見当違いにも黒人の港湾労働者を感染源だと決めつけました。そしてそれを口実に、市内に住んでいた黒人住民を全員、メイトランド近くの「ンダベニ」という新しい居住区へ強制移住させたんです。これが、その後数十年続く黒人居住区、つまりタウンシップ隔離政策の最初の例でした。アパルトヘイトが公式に始まったのが1948年ですから、この出来事はなんと47年も前のことです。一匹のネズミが生んだ誤解が、この街の人種隔離の歴史を半世紀近くも早めてしまったわけです。
ディストリクト・シックス — 取り壊されたまま建て直せなかった街
いま窓の外に見えるあの広い空き地、一見ただ工事が止まった土地のように見えますが、実はここにはもともとケープタウンでいちばん活気のある街がありました。名前はディストリクト・シックス。黒人、カラード(混血)、インド系、ユダヤ系の人々が一緒に暮らす、この街で最も多彩な場所でした。ところが1966年、政府はこの土地を「白人専用地区」に指定してしまいます。それから1982年までの16年間に、なんと6万人にのぼる住民がケープ・フラッツという郊外へ強制的に追い出され、彼らが住んでいた家や建物は一つ残らず取り壊されました。でも、ここにはどんでん返しがあります。この強制撤去が国際社会からあまりにも強い非難を浴びたため、政府でさえ、この空き地に計画していた白人向け住宅を建てるとは発表できなかったんです。だからこの土地は何十年もの間、ほとんど空き地のまま残っているんです。いま私たちが見ているこのがらんとした風景そのものが、暴力の痕跡であると同時に、その暴力が完全には成功しなかった証でもあるわけです。今はディストリクト・シックス博物館が、当時の街の物語を伝えています。
囚人船「ネプチューン」事件
1849年、大英帝国はオーストラリアで行ったのと同じように、ここケープ植民地も囚人を送り込む流刑地として使う計画を立てました。そこで囚人船「ネプチューン」号に囚人を乗せ、テーブル湾へ送り込んだんです。ところがこの計画は、ケープタウン市民の思わぬ抵抗にぶつかります。商人たちは船への物資の供給をいっせいに拒否し、労働者たちは囚人が船から降りること自体を阻止しました。こうしてなんと5か月もの間、ネプチューン号は荷を降ろすこともできず港に足止めされたんです。結局イギリス政府が折れ、船に乗っていた囚人たちはそのままオーストラリアへ送り返されました。歴史家たちはこの出来事を、この街で起きた最初の大規模な市民の抵抗と評価しています。一発の銃弾も撃たず、ただ協力しないというだけで、帝国の計画を頓挫させたわけです。
シグナル・ヒルの正午の大砲
毎日正午になると、この丘から大砲の音が一度鳴り響きます。初めて聞く人はびっくりするイベントですが、実はこの大砲は観光客のためのショーではありません。1806年にこの大砲が初めて設置されたときの目的はただ一つ、港に停泊するすべての船の航海用時計を正確に合わせることでした。今でこそGPSもスマートフォンもありますが、当時はそんなものあるはずもありません。ですから街全体、そして港のすべての船にとって、この大砲の音がそのまま標準時だったんです。そして驚くのは、この伝統が200年以上、一度も欠かさず続いていること。今この瞬間も、正午になれば必ずあの丘から大砲が鳴るでしょう。世界で最も古い時報の伝統の一つが、まさに私たちの目の前で続いているんです。
出発前ブリーフィング
奥地区間を生き抜く4つの心得出発前ブリーフィング
本格的な奥地区間に入る前に、必ず覚えておきたい生き抜くための心得をいくつか確認しておきましょう。まず一つ目、ナミビアの砂漠区間では、ガソリンスタンドとガソリンスタンドの間が400キロも離れている場所があります。ですから20リットルの金属製ジェリカンに予備の燃料を必ず積んでおいてください。二つ目、ナミビアのガソリンスタンドはカードが使えないところが多いです。ナミビアドルの現金を多めに用意しておきましょう。三つ目、燃料計が半分を切ったら、見つけたスタンドで必ず給油する習慣をつけてください。「次で入れよう」と思っていて困ったことになるケースが多いんです。最後に、ナミビアには南部と北部の間に生肉の持ち込みを禁止する家畜防疫線があり、ボツワナの国境を越えるときも生鮮食品、特に肉は持ち込みが一切禁止されています。ですから国境を越える前には、冷蔵庫の肉を食べきるか処分しておくのがおすすめです。
クラワー・フレーデンダル
クラワー — 町がまばらになる合図実用情報
ケープタウンからスプリングボックまで560キロ。南アフリカ国内だけで1日で走るにはかなり遠い距離です。その途中、クラワーという町に24時間営業のガソリンスタンドがあります。ここから先は町と町の間隔がだんだん広がっていくので、通りがかりに早めに給油しておく習慣をつけると安心です。
フレーデンダル — 次の町までの最後の休憩ポイント実用情報
クラワーを過ぎてもう少し進むと、フレーデンダルという町があります。ここにも24時間営業のスタンドがあり、ちょっとしたコンビニやパン屋もあるので、ひと休みするのにぴったりです。ここを過ぎるとスプリングボックまでしばらくこれといった町がないので、トイレやおやつもここで済ませておくといいですよ。
スプリングボック
コーンウォールから渡ってきた鉱夫たち
いま通っているこの乾いた砂漠の町、スプリングボックとオキエップ一帯を見てみてください。今はただの荒涼とした原野に見えますが、19世紀にここで銅の採掘ブームが起きたときは、まったく違う風景でした。イギリスのコーンウォール地方で代々鉱山の仕事をしてきた熟練の鉱夫たちが、「カズン・ジャックス(いとこのジャックたち)」という愛称で呼ばれながら、地球の反対側のこの砂漠まで渡ってきたんです。何か月も船に揺られてやって来て、自分たちが知っている鉱山技術をこの見知らぬ土地にそのまま根付かせたんですね。そして不思議なことに、その痕跡が今も残っています。今でもこの地域の一部の家系の姓を調べると、コーンウォール系の血筋の名残が見つかるそうです。アフリカの砂漠の真ん中に、イギリスの田舎町の文化がそのまま移植されたわけです。想像してみると、なかなか不思議で面白い組み合わせだと思いませんか?
消えたアンテロープの大移動
この町の名前、スプリングボックは、実はアンテロープ(レイヨウ)の名前から来ています。19世紀までは、この一帯で「トレックボッキング」と呼ばれる壮大な光景がたびたび見られました。スプリングボックの群れが何十万頭も連なって、何日もかけてこの原野を横切っていく光景です。想像もつかないほどとてつもない規模だったそうです。でも今では、そんな大移動は見られません。農場を仕切るフェンスがあちこちに建てられ、無秩序な狩猟が続いたことで、その壮観は完全に消えてしまったんです。いま私たちに残っているのは、そのアンテロープの名を冠した町ひとつだけ。かつて大地を埋め尽くした命の波が、今では地名の中にだけ残っているわけです。
ナマクワランド
ハーフメンス — 「半分人間」の多肉植物の伝説
車窓から、妙に片側へ首をかしげたように伸びている木を見かけたことはありますか?この植物は「ハーフメンス」、日本語にすると「半分人間」という意味を持つ、この地域固有の多肉植物です。ナマ族の伝説によると、はるか昔、戦争と干ばつを逃れて北の故郷を捨て、南へ逃げてきた人々がいたそうです。神は彼らを哀れに思い、半分は人間、半分は植物にしてやった——それがこのハーフメンスなのだとか。だからこの植物は今もいつも頭を、つまり茎の先を、北の失われた故郷の方へ傾けて育つと言われています。
リヒターズフェルト — 今も続く遊牧の暮らし
このナマクワランドの北には、リヒターズフェルトという地域があります。ユネスコの世界遺産に登録された、とても特別な場所です。ただ、ここが世界遺産になった理由はちょっと独特なんです。雄大な自然景観のためではなく、ナマの先住民が何百年も同じやり方で羊やヤギを連れて季節ごとに移動しながら暮らす、その暮らし方そのものが「生きた遺産」として認められたんです。「ハル・オムス」と呼ばれる、亀の甲羅のような形の移動式テントの家も、今も実際に使われています。
オレンジ川国境
国境を越える前の最後の満タンチャンス実用情報
まもなく南アフリカとナミビアを隔てるオレンジ川の国境、フィールスドリフトを越えます。国境を越えるとすぐにシェルのガソリンスタンドがあり、カード払いができてSIMカードも売っています。ここで必ず覚えておきたいことがあります。次のスタンドはなんと118キロ先のアイアイスで、そこは現金のみでカードが使えないうえ、燃料の供給も不安定です。ですからこの国境のスタンドでできるだけ給油してから出発するのが安全です。
キートマンスフープ
キャニオンに入る前の最後の満タン実用情報
フィッシュリバー・キャニオンに入る前の最後の町、キートマンスフープです。ここに24時間営業のスタンドがありますが、今回こそ例外なく満タンにしていってください。キャニオン区間にはガソリンスタンドがまったくありませんから。ここのスーパーも評判がなかなか良いので、必要な食料もこの機会にそろえておきましょう。ちなみに、ドイツ風のパン「ブレートヒェン」がおいしいことで有名な町です。
Ai-Ais
温泉は最高、でも給油は当てにしないで実用情報
フィッシュリバー・キャニオンの端、温泉で有名なアイアイスのキャンプ場に到着しました。トレッキングの後に温泉に入れるので施設は充実していますが、ここのガソリンスタンドは当てにならないんです。カードも使えず、燃料がないこともよくあります。ですから理想的には、キートマンスフープですでに満タンにした状態でここに着くのが正解です。
フィッシュリバー・キャニオン
巨大な蛇がのたうち回って刻んだ峡谷
いま目の前に広がるこの巨大な峡谷は、世界で2番目の規模といわれるフィッシュリバー・キャニオンです。地質学者は、この峡谷がなんと5億年にわたる地殻変動と浸食によってできたと説明します。でも、この土地のもともとの主だったナマ族には、まったく違う物語が伝わっています。はるか昔、「コウテイン・クル」という名の巨大な蛇がこの地を暴れ回り、手当たり次第に破壊を繰り返していたそうです。ついに人々が力を合わせてその蛇を退治したのですが、蛇が死にぎわにのたうち回った跡が大地を深く引き裂き、それが今私たちが見ているこの峡谷になった、というんです。実際に峡谷を上から見下ろすと、くねくねと曲がりくねった形が、本当に巨大な蛇の通った跡のように見えます。5億年の科学と古い伝説が、この一つの峡谷で不思議と重なり合っているんですね。
リューデリッツ
今日はキャンプ場、100年余り前は強制収容所
いまテントを張ってキャンプを楽しんでいるこの場所、大西洋を一望できるこの美しいキャンプ場がかつてどんな場所だったかを知ると、心が重くなるかもしれません。1905年から1907年にかけて、ドイツはここシャーク・アイランドにヘレロ族とナマ族の数千人を強制収容しました。大西洋から吹きつける身を切るような冷たい風をまともに受けながら、まともな服もなく、強制労働と飢え、病気に苦しめられたんです。その結果、ここでの死亡率はぞっとするほど高く、歴史学者たちはここを「死の島」と呼び、20世紀最初のジェノサイドの現場の一つとして記録しています。今ここで一夜を過ごす旅行者の多くは、こうした歴史をまったく知らないまま、美しい夕焼けだけを眺めて去っていきます。穏やかな風景の下にこんな重い歴史が眠っていることを、少しの間でも心に留めていただけたらと思います。
コールマンスコップ
月明かりのない夜に這い回ってダイヤモンドを探した
リューデリッツから少し離れると、砂に半分埋もれた不思議な村に出会います。コールマンスコップというこの場所は、1908年にダイヤモンドが発見された後、採掘労働者が押し寄せてできた村です。当時はダイヤモンドが砂漠の表面にそのまま埋まっていることが多く、採掘者たちはわざと月明かりがいちばん弱い新月の頃の夜を選んで砂漠を這い回り、月明かりにきらめくダイヤモンドを手で拾い集めた、という話が伝わっています。最盛期には世界のダイヤモンド生産量のかなりの部分を占めるほどでしたが、鉱脈が南へ移ったことで1956年に完全に捨てられました。そして今、砂漠の砂が少しずつこの村を再びのみ込みつつあるんです。
ソーサスフレイ
極限の砂漠でも人は生きていた
いま車窓から見えるこの砂漠は、水一滴見つけるのも難しい極限の環境です。でも驚くことに、こんな場所でも人は暮らしてきました。サン族、よくブッシュマンと呼ばれる人々が残した道具や痕跡が、この一帯のあちこちで見つかっています。彼らはダチョウの卵の殻に水を満たして持ち歩くという独特の方法で水を蓄え、運びながら、この極端に乾燥した砂漠に適応して生き延びてきました。私たちが数日の旅でも音を上げそうになるこの土地で、何千年も前から人々が暮らし方をがらりと変えながら生きてきたという事実、あらためて驚かされませんか?
「ビッグ・ダディ」と「ビッグ・ママ」
あの前方にそびえ立つ巨大な砂丘が見えますか?「ビッグ・ダディ」と呼ばれるこの砂丘、実は地図に正式に登録された名前ではありません。ここを行き来する旅行者やガイドたちが自然につけたニックネームが、そのまま定着したものなんです。谷底から頂上までの高さはなんと325メートル以上で、世界で最も高い砂丘の一つに数えられます。足がずぶずぶと沈む砂を踏みしめて頂上まで登るのは楽ではありませんが、登りきればその苦労に報いてくれる景色が待っています。頂上からは、すぐ隣のデッドフレイ全体が真っ白に、まるで別の惑星のように広がる姿を一望できるんです。
デッドフレイ
900年以上朽ちない木
この真っ黒に焦げたような木々、実は焼けたわけではありません。およそ600年から900年前、川が流れていた時代にここで育ったキャメルソーン(アカシア)の木です。砂丘が川をせき止めたことで木々は枯れてしまいましたが、この地域があまりに乾燥しているため、木を分解するカビやバクテリアさえ生きられませんでした。だから枯れてから千年近くたつのに、樹皮までそのまま残っているんです。
ソリテア
砂漠の真ん中の唯一のスタンド、そしてアップルパイ実用情報
セスリエムからスピッツコップへ向かう途中、砂漠の真ん中に「ソリテア」というとても小さな集落があります。朝7時から夜7時までしか開いていない、この区間唯一のガソリンスタンドがここにあります。ほかにスタンドがない区間なので、必ずここで給油していってください。そしてこの集落はアップルパイでもかなり有名です。砂漠の真ん中で出会う小さなオアシスのようなこの集落で、給油ついでにアップルパイをひと切れ味わっていくのがおすすめです。
スピッツコップ
7億年前の花崗岩、初登頂は80年前
いま目の前にそびえ立つこの花崗岩の峰は、ナミビアの象徴ともいえるスピッツコップです。この巨大な花崗岩のドームは、およそ7億年前、地下深くのマグマがゆっくり冷えて固まってできました。7億年という時間、ぴんと来ないかもしれませんが、さらに驚く事実があります。これほど古い山なのに、人が初めてその頂上に立ったのは、なんとわずか1946年、スイスの登山家たちによってでした。つまりこの山が存在してきた7億年のうち、ほとんど最後の一瞬になってようやく人間に登頂を許したわけです。それだけ険しく滑らかな花崗岩の絶壁が、長い間誰の足も寄せつけなかったということでしょう。
サン族が残した絵 — ブッシュマンズ・パラダイス
スピッツコップの山麓には「ブッシュマンズ・パラダイス」と呼ばれる場所があります。その名のとおり、ここにはサン族が残した古代の岩刻画や岩絵が今もくっきりと残っています。サイやキリンなどの動物、そして狩りの場面が岩の上に描かれていますが、学者たちはこれらの絵が単に目に見えたものを記録したのではないと解釈しています。サン族の伝統的な信仰では、シャーマンはトランス状態に入ると動物の霊と一体になると信じられていて、これらの絵の一部はまさにその霊的な体験の瞬間を表しているというんです。何千年も前に誰かがこの岩の前で体験した神秘的な瞬間が、今も私たちの目の前にそのまま残っているわけです。
スワコプムント
絵のような植民地建築の陰に隠れた歴史
この通りに沿って並ぶかわいらしいドイツ風の建物、見ているとまるでヨーロッパのどこかの小さな町に来たような錯覚に陥るほどです。これらの建物は、1892年からドイツがここを「ドイツ領南西アフリカ」の港町として開発したときに残した痕跡です。でも、この絵のような風景の裏には決して軽くない歴史が隠れています。同じ時期、1904年から1908年にかけて、ドイツ軍はヘレロ族とナマ族に対して武力弾圧を行い、歴史学者たちはこの出来事を20世紀最初のジェノサイドの一つと位置づけています。強制収容所に入れられた数千人が、飢えと強制労働、病気で命を落としました。スワコプムントとリューデリッツ、この二つの町がまさにその時期に収容所があった場所でした。特にリューデリッツのシャーク・アイランドは、その中でも最も悪名高い例として記憶されています。いま私たちの目にかわいらしく映るこの建物たちが、実はそんな重い時代を一緒に抱えていることを覚えておいていただけたらと思います。
トゥウェイフェルフォンテーン
指が5本のライオン — 「ライオンマン」の岩刻画
この岩に刻まれたライオンの絵、よく見てみてください。何か少し変だと思いませんか?ライオンの足が、よく見ると人間の足跡のように表現されているんです。しかも脚の先に別の足の形が重ねて刻まれた、かなり奇妙な姿です。そこでこの岩刻画には「ライオンマン」という名前がつけられました。学者たちは、この絵がただライオンを描いたものではないと考えています。サン族の伝統的な儀式では、シャーマンはトランス状態に入ると動物の霊と一つになると信じられていたからです。つまりこの絵は、もしかすると人がライオンに変身するまさにその瞬間を表したものかもしれません。何千年も前に誰かが体験した霊的な瞬間が、今もこの岩の上にそのまま刻まれているんです。
「疑わしい泉」 — 失望から生まれた名前
「トゥウェイフェルフォンテーン」という名前、直訳すると「疑わしい泉」という意味です。名前にしてはちょっと変わっていますよね?いきさつはこうです。1940年代にここに入植したある農夫がいて、近くの泉があまりにしょっちゅう涸れてしまうので、とても当てにできないと、がっかりした気持ちでこの名前をつけたそうです。ところが、その「疑わしい」泉のまわりに、なんと6千年にわたる歴史を秘めた岩刻画が2,500点以上も隠れているとは、その農夫も、そしてその後も長い間、誰も知りませんでした。失望から生まれた名前が今ではユネスコ世界遺産の名前になっているなんて、歴史の皮肉だと思いませんか?
化石の森
この場所で育ったことのない「石の木」たち
トゥウェイフェルフォンテーンの近くに横たわるこの巨大な石の塊、よく見ると木の形をしています。およそ2億6千万年前に生きていた木が化石になったものですが、面白いのは、これらの木がもともとこの場所で育ったわけではないということです。学者たちは、はるか昔、巨大な洪水が遠く離れた地域で育っていた木々を根こそぎ押し流し、ここまで運んできたのだろうと推定しています。そうして流れ着いた木が泥や砂に素早く埋もれて酸素が遮断され、その状態で長い時間をかけて鉱物が木の組織を少しずつ置き換えていき、今のように石に変わったんです。つまり今私たちの目の前にある木々は、みんなはるか遠くから流れてきたよそ者というわけです。
バーント・マウンテン
一度も燃えたことがないのに「焼けた山」
あの前方の、赤く焦げたように見える稜線は「バーント・マウンテン」、日本語で言えば「焼けた山」と呼ばれています。でも面白いことに、この山は実際に燃えたことが一度もないんです。およそ1億5千万年前、近くで起きた火山活動の熱が、この稜線をつくる頁岩(けつがん)の中の鉱物成分を少しずつ変質させ、今のような黒みがかった赤色に変えただけなんです。でも遠くから見ると本当に山全体が焦げているように見え、特に日没の頃、日差しが斜めに当たるときには、稜線がまるで今も燃えているように見えます。
オルガンパイプ
冷えていく溶岩が楽器に似た理由
バーント・マウンテンのすぐ近くには「オルガンパイプ」と呼ばれる独特な地形があります。名前のとおり、本当にパイプオルガンの管をびっしり立て並べたような形です。およそ1億5千万年前、地下から上がってきた溶岩が地表近くでとてもゆっくり、一定の速さで冷えました。岩石が均一に冷えて収縮すると規則的な縦の割れ目ができ、その結果、こうしてびっしり並んだ玄武岩の柱ができたんです。もともとは地中深くに埋まっていましたが、長い年月の間にまわりの柔らかい堆積岩だけが浸食されて消え、硬い柱だけが残って、今のように峡谷の壁にそっくり姿を現しているんです。
アウチョ
エトーシャに入る前の最後の補給の町実用情報
エトーシャ国立公園に入る前の最後の町、アウチョに到着しました。ここに24時間営業のスタンドがありますが、今回も例外なく満タンにしてください。エトーシャ公園内のスタンドは燃料の供給が不安定なことが多いので、ここで入れた燃料を頼りに入るのが安全なんです。そして、ここで最低4日分の食料をそろえておくのも忘れずに。公園内に滞在している間は、まともに買い物をするのが難しいですから。
エトーシャ
一人の女性の涙がつくった塩の平原
いま目の前に広がるこの真っ白な平原、果てが見えないほど広いこの塩の平原こそがエトーシャ・パンです。地質学的には、およそ1億年前にあった巨大な湖が少しずつ干上がってできた地形です。でも、この土地のもともとの住民の間には、ずっと悲しい物語が伝わっています。はるか昔、村が敵の襲撃を受けてすべて焼かれ、家族をすべて失った一人の女性がいたそうです。彼女はあまりにも悲しく泣き続け、その涙が止まらずに流れて巨大な水たまりとなり、それがやがて干上がって、いま私たちが見ているこの広大な白い平原になった、というんです。科学が説明する1億年の地質学と、一人の女性の悲しみがつくった涙の伝説が、同じ風景をめぐってまったく違う物語を語っているんですね。
ナムトニ砦 — サファリキャンプの中の戦いの跡
いまサファリキャンプの真ん中に立っているこの古い日干しレンガの砦は、のどかな風景には似つかわしくない過去を抱えています。1899年、ドイツ植民地当局がこの砦を初めて築きました。ところが1904年、オヴァンボ族が大規模な攻撃を仕掛け、この砦を完全に破壊しました。いま私たちが見ている建物は、その後に建て直された姿です。野生動物を見に来たサファリキャンプのど真ん中に、こうして植民地時代の武力衝突の跡がそのまま立っているというのは、考えてみると不思議な対比ですね。
ルンドゥ
丸太一本から造る舟 — マコロ
いま川の上を静かに滑っていくあの細長い舟は「マコロ」と呼ばれます。驚くことに、この舟は板を継ぎ合わせたものではなく、木を一本まるごとくり抜いて造ったものなんです。カバンゴ川沿いに暮らしてきたハンブクシュ族やカバンゴ族は、何百年も前からこうやって舟を造り、川を行き来してきました。今でこそ国境が引かれていますが、その国境線ができるずっと前から、この川はアンゴラ内陸とここカプリビ地域を結ぶ、自然がつくった高速道路でした。象牙や塩、穀物といった物資はすべてこのマコロに積まれて川を行き来したんです。そして今でも川沿いの村に行くと、人々が昔ながらのやり方で木を削ってマコロを造る姿を見ることができます。
のどかな補給拠点になる前
いま私たちが通っているこのルンドゥ、そしてこの先のカプリビやカバンゴ地域は、今でこそこの上なく穏やかなセルフドライブ旅行者の補給拠点ですが、実はそう遠くない過去にはまったく違う姿でした。1966年から1989年まで、ナミビア独立戦争が続いた時期、ここは軍事的緊張が最も高い国境地帯だったんです。1990年にナミビアがついに独立を果たしてから、この地域は平和な国境交易と旅の拠点へとすっかり生まれ変わりました。私たちがいま何の心配もなくガソリンスタンドに寄り、スーパーで買い物ができるこの穏やかさが、実はまだ40年にも満たない、ごく最近つくられたものだと考えると、この瞬間が少し特別に感じられませんか?
カティマ・ムリロ
「火を消せ」 — 町の名前に込められた急流の物語
「カティマ・ムリロ」、この町の名前の意味をご存じですか?現地の言葉で「火を消す」という意味です。ちょっと変わった名前ですよね。これにはこんな話が伝わっています。昔、この近くのザンベジ川にはとても危険な急流があったそうです。人々は丸木舟で川を渡るとき、料理や明かりのために舟の上で小さな火をたいていたのですが、急流で舟が激しく揺れるたびに、その火がすぐ消えてしまったというんです。そこでここを通るときには「火を消せ」という言葉が口癖のように出るようになり、それがそのまま町の名前になった、というお話です。
北海の島と交換された土地 — カプリビ回廊
いま私たちが通っているこの細長い土地、「カプリビ回廊」あるいは「ザンベジ回廊」と呼ばれるこの地域には、かなり間の抜けた外交の裏話が隠れています。1890年、ドイツとイギリスは「ヘルゴランド=ザンジバル条約」というものを結びました。ドイツが北海にある小さな島ヘルゴランドをイギリスに渡す見返りに受け取った土地が、まさにこの細い回廊だったんです。ドイツの計算はこうでした。この土地を通ってザンベジ川に船を浮かべれば、自分たちの東アフリカ植民地まで水路で結べるはずだ、と。ところが一つ問題がありました。川の途中にどっしり構えるビクトリアの滝の存在を、事前に確かめていなかったんです。船が滝を越えられるはずがありませんよね。結局この土地は、当初の目的を一度も果たせないまま、植民地時代の外交の骨折り損の代表例として歴史に残ることになりました。
カサネ
4か国がほぼ一点で出会う町
いま私たちが浮かんでいるこの川の上では、本当に特別なことができるんです。1時間ほど船で移動するだけで、ボツワナ、ナミビア、ザンビア、ジンバブエという4つの国の土地をかすめていけるんです。このチョベ川を挟んで4か国の国境がほぼ一点で出会っているのですが、こんな地点は世界的にも本当に珍しいんです。川の上でサファリボートに乗っていると、知らないうちに国境を何度も行き来するという独特の体験をすることになるわけです。
リビングストンもローズも休んだという千年のバオバブ
遠くに見えるあの巨大なバオバブの木、太い幹がただものではありませんよね?樹齢は千年をゆうに超えると推定される木です。そしてここには面白い伝説が一つ伝わっています。19世紀、この地域を探検したデイヴィッド・リビングストンやセシル・ローズといった有名な探検家たちが、まさにあの木陰で暑さをしのいで休んでいったという話です。千年という時間の中であの木が見守ってきた人々の物語を思うと、ただ立っている一本の木ではなく、生きた歴史書のように感じられませんか?
チョベ
ゾウの回復の成功物語
チョベは1968年、ボツワナで最初に指定された国立公園です。でもここにも暗い時代がありました。かつて無秩序な密猟でゾウの個体数が大きく減る危機に見舞われたんです。しかし強力な保護政策と、軍を動員した密猟対策のおかげで、ゾウの個体数は劇的に回復しました。今ではアフリカ全体でもゾウの密度が最も高い地域の一つに数えられています。どれほど多いかというと、正確な数を数えることさえ専門家の間で意見がまとまらないほどだそうです。野生動物保護の歴史の中でも指折りの成功例として、チョベはよく引き合いに出されています。
マウン
小さな町からサファリ航空の首都へ
「マウン」という名前は、ツワナ語で「短い葦が生える場所」という意味です。1915年にバタワナ族の新しい首都に定められて生まれた、もともとはただの小さな町でした。でも、この町が特別になった理由があります。すぐ隣のオカバンゴ・デルタは道路ではとても行けない場所が多いという地理的な制約のため、20世紀半ばから小型機を使ったサファリが大きく発達したんです。その結果、今では人口の規模に比べると、アフリカで最も忙しい小型機の空港の一つがこのマウンにあります。陸の道が閉ざされたので、代わりに空の道が開けたわけですね。
ライリーズ・ホテル — 冒険者たちのたまり場
いまのマウン市内には、かつて「ライリーズ・ホテル」という場所がありました。1940年代にハリー・ライリーという人が建てたこのホテルは、実はホテル兼整備工場でした。当時オカバンゴ・デルタへ向かうハンターや探検家、そして草創期のサファリのパイロットたちが、みんなここに集まったんです。まともな道路さえなかった時代ですから、このホテルで燃料を補給して最新の情報を得なければ、デルタの中へ入る方法がなかったんです。つまりここは、まさに冒険者たちの唯一の玄関口だったわけです。今もマウン市内にはその後身が残っています。
モレミ
ある王妃の決断
モレミというこの保護区の名前は、実はある人物の名前から取ったものです。1963年、この地域で無秩序な狩猟によって野生動物の数が急速に減っていくのを見ていたバタワナ族の摂政、モレミ王妃が自ら動きました。当時亡くなった夫、モレミ3世首長に代わって部族を率いていた彼女は、この土地を野生動物保護区として宣言する決断を下したんです。そしてこの決断をたたえて、保護区の名前も彼女の夫、モレミ3世にちなんでつけられました。興味深いのは、当時アフリカのほとんどの保護区が植民地政府の指示でつくられたのとは違い、ここは地元部族の指導者が自ら決断してつくった、とても珍しい例だということです。外からの押しつけではなく、自分たちの土地を守ろうという意思から始まった保護区なんですね。
ビクトリアの滝
「雷鳴とどろく煙」 — ビクトリア女王が一度も見なかった滝
いま聞こえてくるあの力強い轟音、そして遠くから立ちのぼる水煙——ビクトリアの滝です。でもこの滝には、もともと別の名前がありました。現地の言葉では「モシ・オア・トゥニャ」、訳すと「雷鳴とどろく煙」という意味です。何キロも離れた場所から見えるほど立ちのぼる水煙と、大地を揺るがすような轟音を思えば、まさにぴったりの名前ですよね。ところが1855年、スコットランド出身の探検家デイヴィッド・リビングストンがヨーロッパ人として初めてここに到着したとき、彼はこの美しい滝に自国の君主の名前をつけました。こうして「ビクトリアの滝」という名前が生まれたんです。でも面白い事実が一つあります。その名前の主であるビクトリア女王本人は、生涯で一度もこの滝を実際に見たことがないんです。自分の名前がついた世界的な絶景を、本人は一度も目にしなかったわけです。
ザンベジの蛇神「ニャミニャミ」(参考:本ルート外の地点)道から少し外れた場所
このザンベジ川の下には、恐ろしい伝説が一つ隠れています。川底の深いところに蛇の姿をした神「ニャミニャミ」が住んでいて、この川を守っているという話です。この地域に暮らすトンガ族の間で昔から伝わる信仰なのですが、1950年代、この伝説が再び話題になったことがありました。ザンベジ川の下流でカリバ・ダムを建設している最中、工事が二度も大洪水に押し流されてしまったんです。トンガ族の人々はこれをただの自然災害とは考えませんでした。川をせき止めようとする人間に、ニャミニャミが怒って報復したのだと信じたんです。今でもザンベジ川沿いのお土産屋さんに行くと、この蛇神を彫った木彫りの像をよく見かけます。
リビングストンが会談を開いたという「ビッグ・ツリー」のバオバブ
滝の近くに立つこの巨大なバオバブの木は「ビッグ・ツリー」と呼ばれています。その名のとおり本当に圧倒的な大きさで、樹齢は千年を超えると推定されています。そしてこの木にも伝説が一つ伝わっています。この滝を初めて見つけた探検家デイヴィッド・リビングストンが、この木陰で地元の部族と会談を持ったという話です。千年という時間の中で、この木はどれほど多くの人々の出会いと物語を見守ってきたのでしょう。いま私たちがこの木陰に立っていることも、その長い物語のほんの小さな一場面にすぎないのでしょうね。
