ジョバーグ → クルーガー → エスワティニ → レソト → ケープタウン(大横断)
この旅で出会う50の物語です。GPS音声で案内される歴史・文化・自然の解説を、ここでは文章でひと足先にお楽しみいただけます。
3か国の国境越えブリーフィング
3か国をまたぐこの旅で必ず準備したいこと出発前ブリーフィング
今回の旅は南アフリカだけでなく、エスワティニ、レソトまで3か国を通ります。ですから、パスポートの残存期間が6か月以上あるか、そして査証欄の空白ページが最低3ページ以上あるかを、出発前に必ず確認してください。ビザの要否や滞在できる日数は国籍によって異なります。今回の旅ではレソトに4日ほどしか滞在しないので問題になることは少ないはずですが、出発前に大使館や自国の海外渡航情報サイトで最終確認することをおすすめします。そしてレンタカーで国境を越えるには、エスワティニとレソトそれぞれの越境許可証を事前に発行してもらう必要があります。最後に、このルートのクライマックスであるサニ峠は、法律で4WD車両しか通行できず、国境は毎日午後4時に閉まります。ですから必ず午前9時までには出発することを忘れないでください。
ヨハネスブルグ
草原が都市になるまでにかかった時間、わずか数年
この都市は、1886年まではただの荒涼とした草原でした。ところがウィットウォーターズランドの尾根で世界最大規模の金鉱脈が見つかると、世界中から採掘者が押し寄せました。ふつう一つの都市ができるには何百年もかかりますが、ここは金ひとつのために、わずか数年でテント村から立派な都市へと姿を変えたんです。
金がつくったもう一つの山 — 鉱山のぼた山
いま街の郊外に見えるあの黄色い丘、自然にできたものではありません。100年以上にわたって金鉱から掘り出した鉱石のかす、つまり廃石を積み上げてできた人工の丘なんです。この街が金で成り立った痕跡が、今も目に見える地形として残っているわけです。さあ、この黄金の街を離れて、パノラマルートへ向かいましょうか?
グラスコップ
金が尽きると木を植えた町
いま通っているこの町を囲む森、実は自然林ではありません。1880年代のゴールドラッシュで生まれたグラスコップは、金がすぐに尽きると、まったく別の道を選びました。町の人々がまわりの山に松やユーカリを大規模に植えて、木材産業を興したんです。そのおかげで、鉱山町のほとんどが消えていったのとは違い、この町は今まで生き残ってきました。
切り立った断崖が再び人を呼び寄せた
木材産業で一世紀を持ちこたえたグラスコップは、20世紀後半にもう一度生まれ変わりました。町を囲むこの険しい峡谷の地形が、今度はジップラインや高所リフトといったアドベンチャーツーリズムの舞台になったんです。鉱山でも製材所でもなく、断崖そのものが町の新しい資源になったわけです。
ゴッズ・ウィンドウ
神が見下ろす窓と呼ばれた果てしない眺め
この展望台の名前は「神の窓」、ゴッズ・ウィンドウです。ドラケンスバーグの断崖の上から、ローフェルトの低地が霧の向こうに果てしなく広がる眺めから、この名前がつきました。天気が良ければ、あの下の低地の向こう、遠くクルーガー国立公園の境界まで見渡せるそうです。
訪れるたびに違う顔を見せる窓
この窓は同じ場所なのに、訪れるたびに違う景色を見せてくれます。断崖の下から上がってくる霧や雲が刻々と視界をさえぎったり開いたりするので、訪れる時間や天気によってまったく違う印象の眺めになるんです。だから地元のガイドたちは朝早い時間の訪問をすすめます。午後になるほど、霧が断崖を包み込むことが多いからです。
バークス・ラック・ポットホールズ
金をほとんど見つけられなかった人の名がついた名所
この地形の名前には「バークの幸運」という意味が込められていますが、実はバークという人はここで金をほとんど見つけられませんでした。19世紀の採掘者トム・バークの名前から取ったもので、当時の仲間たちが運がないとからかうようにこの地名をつけたという話が伝わっています。いま見えるこの円筒形のくぼみは、実は金とは関係ありません。何千年もの間、川の水の渦による浸食が花崗岩を削ってできた、自然の地形なんです。
ピルグリムズ・レスト
町全体が博物館になったゴールドラッシュの町
いま通っているこの町は、町全体が博物館です。1873年に金が見つかってできたピルグリムズ・レストは、最盛期には何千人もが押し寄せたゴールドラッシュの町でした。ところが金が尽きた後も建物が取り壊されずにそのまま残り、今では町全体が国の遺産に指定されて、1870年代の姿をそのまま保存しています。
ブライデ・リバー・キャニオン
「悲しみの川」と「喜びの川」 — 死んだと思われた仲間たち
いまこの峡谷を流れる二つの川の名前は「悲しみ」と「喜び」です。19世紀、ボーア人のトレッカーの一団がこのあたりを通ったとき、偵察に出た仲間の一部が長い間戻ってきませんでした。残った人々は彼らが死んだと思い、近くの川を「トルール」、つまり悲しみと名づけました。ところがしばらくして偵察隊が生きて戻ってきて、合流した地点の川は「ブライデ」、喜びと呼ばれるようになったんです。今もこの峡谷を横切る二つの川の名前に、そのときの悲喜がそのまま残っているんですね。
スリー・ロンダベルズ
わら葺き小屋に似た三つの巨大な岩峰
あの三つの峰は、アフリカの伝統的なわら葺き小屋「ロンダベル」に似ていることから、スリー・ロンダベルズと呼ばれています。およそ2億年にわたる川の浸食が削り出した地形ですが、人がわざわざ作ったかのように精巧に見えますよね。世界で3番目に大きな峡谷であるブライデ・リバー・キャニオンの中でも、最も象徴的な風景に数えられています。
クルーガー国立公園
狩猟を止めようとした大統領の名を冠した公園
この公園の名前は、トランスヴァール共和国のポール・クルーガー大統領から取ったものです。1898年、彼が無秩序な狩猟で激減していた野生動物を守るため「サビ動物保護区」に指定したのが始まりでした。1926年に国立公園へ正式に昇格したとき、彼をたたえて「クルーガー」という名前がつけられたんです。当のクルーガー本人は保守的な農業社会を率いた人物でしたが、100年以上続いたこの決断が、今ではアフリカ最高の野生動物保護地をつくったわけです。
サビ川がつくった野生動物密度ナンバーワンの区域
いま通っているこのサビ川は、乾季にも水が涸れないため、野生動物が絶えず集まってくる区域として知られています。キャンプのレストランのテラスに座っているだけで、川辺に集まるゾウやカバ、バッファローを観察できるほど密度が高いと言われています。
エスワティニ
建国50周年に国名を変えた王
いま越えてきたこの国は、長い間「スワジランド」という名前で知られていました。ところが2018年、国王ムスワティ3世が独立50周年を記念して、国名を「エスワティニ」、つまりスワジ人の土地という意味の名前に変えたんです。植民地時代のイギリス式の名前から離れ、本来のアイデンティティを取り戻すという趣旨でしたが、アフリカに最後に残った絶対君主制の国らしく、こうした国家的な決定も君主の一度の宣言で実現したわけです。
猛獣がいないから歩いたり自転車で回ったりできるサファリ
エスワティニで最も古いこの保護区、ムリルワネには、ライオンやヒョウのような危険な捕食者がいません。そのおかげで、ほかのアフリカのサファリ公園と違い、ガイドなしでも歩いたり自転車に乗ったりして、アンテロープやシマウマ、カバといった動物たちの間を自分で巡るという独特なサファリ体験ができるんです。これまで通ってきたクルーガーとはまったく違うやり方で、野生動物に出会えるわけです。
フルフルウェ
世界のサイのほとんどがここの血筋
いま世界にいるミナミシロサイのほとんどが、この保護区出身の血筋なんです。20世紀初めには密猟で世界にわずか数十頭しか残っておらず、絶滅寸前でした。ここで始まった「オペレーション・ライノ」というプロジェクトが、保護と繁殖、そしてほかの保護区への移送を通じて、個体数を劇的に回復させました。絶滅寸前だった動物の一種が、事実上この一つの保護区から再び息を吹き返したわけです。
1895年、狩猟の最盛期につくられた保護区
フルフルウェ・イムフォロージは1895年に指定された、アフリカで最も古い公式の動物保護区(ゲームリザーブ)です。当時は植民地全域で無秩序な狩猟が盛んだった時期でしたが、異例なほど早く保護区に指定されたおかげで、130年近くビッグ5の生息地を守り続けることができました。
カテドラル・ピーク
槍の壁が竜の山になる
いま目の前に広がるこの山脈のズールー語の名前は「ウカランバ」、「槍の壁」という意味です。険しく並ぶ峰々が、槍のように列をなして立っていることからついた名前です。ところが17世紀のオランダ人入植者たちは、同じ稜線を見てまったく違う印象を受けました。でこぼこした山並みが竜の背骨のように見えるとして、「ドラケンスバーグ」、竜の山と名づけたんです。同じ山を前に、二つの文化がまったく違う動物を思い浮かべたわけです。
洞窟の壁に刻まれた、言葉より古い記録
ドラケンスバーグのあちこちの洞窟には、サン族、ブッシュマンが何千年にもわたって描いた岩絵が残っています。アンテロープや人、狩りの場面が描かれていますが、単なる記録を超えて、シャーマンの霊的な体験を表したものと解釈されることが多いです。この山がユネスコ世界遺産に登録されたとき、自然遺産だけでなく、この文化遺産もあわせて認められました。
ロイヤル・ナタール国立公園
エンジェルフォールに次ぐ高さ、でも乾季には消える滝
いま見えるこのトゥゲラ滝は、落差が約947メートルで、ベネズエラのエンジェルフォールに次いで世界で2番目に高い滝として知られています。でもこの滝は、雨季と乾季で姿がまったく違います。11月から3月の雨季には断崖全体をつたって流れ落ちる巨大な水の流れが見られますが、乾季には水量が大きく減って、細い筋のような流れしか残りません。同じ場所でも、季節が違えばまったく別の滝を見ることになるわけです。
王室の一度の訪問が公園の名前に
この公園は1916年に初めて保護区に指定されましたが、「ロイヤル」という名前がついたのはずっと後の1947年でした。その年、イギリス王室のジョージ6世とその家族が南アフリカを訪問した際にここに立ち寄ったのを記念して、名前が変わったんです。王室の短い一度の訪問が、その後80年近く続く公園のアイデンティティになったわけです。
サニ峠
歩きや馬でしか通れなかった道が4WDの道路に
いま登っているこのサニ峠は、あまりに険しいため、長い間、徒歩か馬でしか通れませんでした。車の道路が整備された後も勾配とカーブがあまりに厳しく、今でも法律で4WD車両しか通行が許されていません。普通乗用車では通ろうとすることすらできない、南アフリカで最も険しい合法の道路の一つです。
アフリカ大陸で最も高い場所にあるパブ
サニ峠の頂上、標高2,874メートルの地点に到着しました。ここには、アフリカ大陸で最も高い場所にあると言われるパブがあります。険しい4WDの登りを終えた旅行者たちが、ここで一杯やりながら「アフリカでいちばん高いパブ」を記念に残すのが、一種の儀式のようになっています。ここまで来たなら、あなたにもその儀式に加わる資格が十分にありますよ。
マレアレア
南アフリカに完全に囲まれた山岳王国
いま入ってきたこの国、レソトは、19世紀にモショエショエ1世がいくつものバソト族を統一して築いた王国です。今も国境のすべてを南アフリカの領土に完全に囲まれた、世界でも数少ない「内陸の飛び地国家(包領国)」です。この険しい山岳地形が外からの侵略を防ぐ天然の防壁となり、周辺国が次々と植民地になる時代にも独立を守ることができたと評価されています。
車より馬が先だった土地
レソトは山岳地形のため、車の道路が発達するずっと前から馬が主要な交通手段でした。今でも一部の山あいの村は、道路よりも先に馬の通る道でつながっています。ここで体験するポニートレッキングは、観光商品というより、今も生きている日常の移動手段を体験することなんです。
グラーフ・ライネ
砂漠の真ん中に200軒を超える18世紀の邸宅
1786年に築かれたグラーフ・ライネは、南アフリカで4番目に古い町です。カルー砂漠の真ん中という辺鄙な場所にあったおかげで、かえって都市開発の圧力をあまり受けず、18〜19世紀のケープ・ダッチ様式の建物が200軒以上ほぼそのまま保存されています。南アフリカで国の遺産建築が最も密集している町とされています。
カムデブー国立公園(荒涼の谷)
その名のとおり「見捨てられた」風景、その正体は地中に埋まっていた骨組み
この谷の名前は「荒涼の谷(バレー・オブ・デソレーション)」です。あまりに荒涼としているのでついた名前ですが、その荒涼さこそが、この谷が2005年に南アフリカ22番目の国立公園に指定される決定的な魅力になりました。いま見えるこの巨大な石の柱は、もともと地中に完全に埋まっていました。1億〜2億年前、マグマが地中の割れ目にしみ込んで冷え、とても硬いドレライトという岩ができました。その後何千万年もの間、雨と風がまわりの柔らかい岩だけを削り取ったことで、この硬い骨組みだけがそびえ立つ柱として残ったんです。
マウンテン・ゼブラ国立公園
ごくわずかしか残っていなかったシマウマのためにつくられた公園
1937年に指定された当時、ケープヤマシマウマは狩猟と農地の拡大で、世界にごくわずかしか残っていない絶滅寸前の状態でした。この公園はただこの一種を守るためにつくられましたが、90年近い保護の努力で、今では数百頭の規模にまで回復しました。その後ライオンやチーターといった捕食者も再導入され、もともとはシマウマの保護区だった場所が、今では小さなビッグ5のサファリ公園に広がっています。さあ、このルート最後の国立公園、アドへ向かいましょうか?
アド・エレファント国立公園
わずか11頭から600頭へ — 殺戮の末に残ったゾウたちの物語
この公園のゾウたちは、1931年にわずか11頭だけが残ったところから始まりました。1919年から1920年にかけて、農地を荒らすという理由で政府に雇われた一人のハンターが、この一帯のゾウを100頭以上射殺したんです。1931年にこの公園がつくられたのは、まさにその最後の生き残りを守るためで、90年余りたった今、その子孫は600頭以上に増えました。ただ、あの恐ろしい狩りの記憶のせいか、アドのゾウたちはほかの地域より車や人に敏感で神経質な傾向があると言われています。
リフトのケーブルで作った、ゾウも破れない柵
この柵、普通に見えますが、実はゾウも破れない特殊な柵なんです。ゾウはとても力が強いので、普通の鉄条網は簡単に壊して逃げ出してしまいました。1954年、当時の公園管理人グレアム・アームストロングが古いエレベーターのケーブルを再利用した特殊な柵を考案したところ、これが驚くほど効果的で、今では世界中のゾウ保護区で「アド式の柵」として標準のように使われています。必要から生まれた発明が世界標準になった例です。
チチカンマ
紅茶のように黒い川の水 — 汚れではなく自然の色
いま見えるこの川の水、色だけ見ると汚れているようですよね?まるで濃い紅茶のような赤黒い色をしていて、初めて見る旅行者は汚染されていると誤解しがちです。実はまわりのフィンボス植物、特にタンニンを多く含む低木から出る天然のタンニン成分が溶け出して生じる、自然な現象なんです。きれいなのに黒く見える、この地域の川に共通する特徴です。
伐採を逃れて生き残った最後の巨木
この巨大な木は、「ビッグ・ツリー」という名前のとおり、800年から1,000年を生きてきました。チチカンマ一帯のイエローウッドの森は、19〜20世紀の造船や建築用の木材需要でほとんどが切り倒されましたが、かつてはこの一帯全体がこんな巨木で埋め尽くされていたんです。木材にするためにほぼすべて伐採された後、この木は当時を記憶するほぼ唯一の生き残りとして残っています。
予約に1年かかるトレイル
1968年に指定されたオッター・トレイルは、南アフリカ初の公式ハイキングトレイルです。人気がとても高いのに一度に受け入れられる人数が少ないため、人気シーズンには出発の1年前から予約が埋まってしまうことも珍しくありません。いま私たちが何気なく通り過ぎるこの出発点は、実は世界中のハイカーが1年待って立つ場所なんです。
ストームズ・リバー
森を切っていた村が、森の上を飛んで森を守る村に
いま通っているこの村、ストームズ・リバーは、もともとイエローウッドの巨木を切り出す林業労働者のために造られました。ところが2001年、この村の人々は正反対のビジネスを始めました。アフリカ初のジップライン・キャノピーツアーを作り、木を切る代わりに木々の間を飛び回ってお金を稼ぎ始めたんです。ツアーの収益の一部は今も森の保全基金に使われています。一世紀のうちに、村の存在理由がまるごとひっくり返ったわけです。
ブルークランス橋
高速道路の橋が世界記録を打ち立てる
いま渡っているこの橋は、もともとはただの高速道路の橋でした。1983年、N2高速道路が峡谷を横切るように造られた、ごく普通の交通施設です。ところが1990年からこの橋でバンジージャンプの営業が始まると、橋の床から谷底まで216メートルに達する落下距離が、世界一高い商業バンジージャンプとしてギネスブックに登録されました。車が通るために造った橋が、今では人々がわざわざ飛び降りに来る名所になったんです。
ナイズナ
「私は王の隠し子だ」 — ナイズナを築いた男の自作の伝説
この町を築いたジョージ・レックスという人は、自分がイギリス国王ジョージ3世の隠し子だといううわさを、あえて否定しませんでした。歴史学者は根拠のない俗説と見ていますが、本人がうわさを広めたか、楽しんでいたという説もあります。実際には王族ではなく弁護士一家出身の実業家でしたが、そのうわさのおかげで、まるで王族が治める町のように「ナイズナの王」というあだ名を得て町を大きくしました。本当の身分とは関係なく、一つのうわさがこの町のアイデンティティになったわけです。
世界でいちばん孤独なゾウ
いま通っているこの森に住んでいたゾウたちは、かつては大きな群れでしたが、狩猟と伐採で数が急激に減りました。2000年代に入ってカメラトラップで追跡した結果、しばらくの間、森に残っているのは年老いたメスのゾウ一頭だけだということが知られ、「世界でいちばん孤独なゾウ」と呼ばれました。ところが2019年のふんのDNA調査で予想より多くの個体が見つかり、科学者たちを驚かせました。正確な数は今もミステリーのままです。
ウィルダネス
川の曲がりが描いたアフリカ大陸 — 偶然がつくった地図
いま見下ろしているあの川の曲がり具合、よく見るとアフリカ大陸の形にそっくりじゃありませんか?サーペンタイン川が湿地に沿ってくねくねと流れる姿なのですが、誰かが意図して作ったのではなく、純粋に川の自然な浸食と堆積がつくった偶然なんです。でもその偶然があまりに精巧なので、「アフリカの地図」という名前までついたんですよ。
消えた断崖の上の列車 — かつて世界で最も美しかった線路
いま見えるあの途切れた橋、かつては蒸気機関車がインド洋のすぐそばの断崖に沿って走っていた線路でした。ウィルダネスの隣、カイマンス川の峡谷を渡っていたこの古い鉄道は、海岸の断崖に沿ってインド洋をすぐ横に見ながら走る景色のおかげで、かつて世界で最も美しい鉄道の旅の一つに数えられていました。ところが2006年の大洪水で橋と線路が大きく壊れ、結局運行は完全に止まってしまいました。今は途切れた鉄橋の跡だけが残り、かつて列車が走っていたことが信じられないほど静かです。
ジョージ
一度も訪れたことのない王の名を冠した森の町
いま通っているこの町、ジョージという名前はイギリス国王ジョージ3世から取ったものです。1811年、イギリスのケープ総督が当時の国王の名前をつけて築いた町ですが、当のジョージ3世はこの町に来たこともなければ、生涯アフリカ大陸に足を踏み入れたことさえありませんでした。町は鬱蒼としたイエローウッドの森を背に、19世紀の木材産業で発展しました。興味深いことに、同じ頃にナイズナを開拓した「ナイズナの王」ジョージ・レックスも、この一帯の木材産業と深く関わっていました。名前は王から来ていても、実際に町を育てたのは森と、その森を切り開いた人々だったわけです。
アウツフーン
羽根一枚で宮殿を建てた人々
いま通っているこれらの豪邸は「羽根の宮殿」と呼ばれています。19世紀末から20世紀初め、ヨーロッパの女性の帽子飾り用にダチョウの羽根の需要が急増し、アウツフーンの農場主たちは莫大な富を築きました。最盛期にはダチョウの羽根の値段が同じ重さの金に匹敵するほどだったという話も伝わっています。農場主たちはそのお金で、こんな豪華な邸宅を建てたんです。ところが第一次世界大戦の前後に羽根の流行が突然廃れ、かつて金ほど高価だったこの産業は、あっという間に没落してしまいました。
カンゴー洞窟
何百万年もかけてつくられた地下の美術館
この洞窟は、1780年にある牧童が初めて見つけたと言われています。何百万年もの間、水が削ってつくった石灰岩の鍾乳石の構造で、アフリカでヘリテージツアーとアドベンチャー・クローリングツアーの両方を提供する唯一の観光洞窟です。いちばん深い区域は、今も一般の観光客には公開されていません。
ケープタウン
サラ・バートマン — スレーブ・ロッジ
いま通り過ぎているこの建物、今日ではスレーブ・ロッジという名前の博物館ですが、もともとは奴隷たちが暮らしていた宿舎でした。ここにはサラ・バートマンという一人の女性の物語が展示されていて、一度聞いたらなかなか忘れられない話なんです。サラはイースタン・ケープのガムトゥース川流域で生まれたコイコイ族の女性でした。ケープタウンで使用人として働いていた彼女に、1810年、あるイギリス人とケープタウンの商人が近づき、ロンドンに行けば大金を稼げると持ちかけました。こうして彼女は大西洋を渡り、ロンドンのピカデリー通りに立たされ、「ホッテントット・ヴィーナス」という名で見世物にされたんです。当時のヨーロッパ人の目には珍しく映った彼女の体つきが、好奇の的になったわけです。イギリスの奴隷制廃止論者たちが彼女を救おうと裁判まで起こしましたが、強制されていた可能性が高い状況でも、彼女は法廷で自分の意思で来たと証言し、結局解放されませんでした。1814年にはフランスに売られ、パリでも同じように見世物にされ、当代きっての博物学者ジョルジュ・キュヴィエの研究対象にもなりました。そして1815年、わずか25歳ほどでパリで亡くなりますが、キュヴィエは彼女の遺体を解剖し、脳と生殖器を標本にしてしまいました。その標本はなんと1974年まで、つまり彼女の死から160年近くもの間、パリの人類博物館に展示されていたんです。彼女がようやく故郷の地に戻って埋葬されたのは2002年、ネルソン・マンデラ政権がフランス政府に正式に要請した後のことでした。偶然にも、その返還式が行われた日が南アフリカの「女性の日」だったというのも、知ってしまうと心に長く残る巡り合わせです。
カミサ — 街の下を流れる隠れた川
運転しながら、ちょっと想像してみてください。いまこの街の下には「カミサ」という名の川が流れているんです。ケープタウンがなぜこの場所に築かれたのか。実はテーブルマウンテンの美しい景色のためではありませんでした。本当の理由は水です。山から流れ落ちる新鮮な湧き水があり、コイコイ族はこの流れを「甘い水」、カミサと呼んでいました。1652年、オランダ東インド会社がアジアへ向かう船のための補給基地を築く場所を探していて、まさにこの水があったからここを選んだんです。そして驚くことに、370年以上たった今もこの川は消えていません。街の地下水路を今も流れていて、ヘリテージ・スクエア近くの歩道に耳を澄ませると水の音が聞こえるほどです。ビクトリア時代に造られた地下トンネルをたどって、この川を歩いて探検するツアーまであるんですよ。華やかなビル群の下で、この街を生んだ古い川が今も静かに流れている——考えるほど不思議だと思いませんか?
ファン・リーベックのアーモンドの垣根 — カーステンボッシュ
カーステンボッシュ植物園の奥へ進むと、一見なんの変哲もない木の垣根に出会います。でもこの垣根には、360年以上にわたる物語が隠れているんです。1660年、ケープ植民地の初代総督ヤン・ファン・リーベックは、コイコイ族の襲撃や家畜の盗難を防ぐとして、入植地の境界に沿って野生のアーモンド、つまり苦みのあるアーモンドの木をびっしりと植えました。表向きは防御用の垣根に見えますが、実際にはコイコイ族を植民地の外へ締め出そうとした最初の隔離政策だったと言えます。そして驚くことに、その木の一部が今も、なんと360年以上生き延びて、カーステンボッシュ植物園の中にそのまま立っているんです。南アフリカで最も古い「植物でできた史跡」として保存されているわけです。美しい庭園を歩いていてふと出会うこの古びた木の幹が、実はこの国の人種隔離の歴史が始まった最初の場面だと知ると、景色が少し違って見えるかもしれません。
喜望城 — 偽りの降伏と灰色の服の女
あの星形をした要塞、喜望城(キャッスル・オブ・グッドホープ)と呼ばれるこの建物は、南アフリカに残る建物の中で最も古いものです。オランダ東インド会社が1666年から1679年まで、13年かけて築きました。要塞の地下にはかつて囚人を閉じ込めた地下牢があり、ここから港まで続く秘密の通路があったという伝説も伝わっています——おそらく密輸や人目を忍ぶ脱出に使われたのだろう、という話です。でも、この要塞でいちばん有名なのは別のものです。それが「灰色の服の女」の怪談。地下牢で処刑された女性の霊だという説もあれば、19世紀のある司令官の愛人だったという説もあります。面白いのは、これがただの昔話で終わらないことなんです。実際に夜間警備に立つ衛兵たちが、今でもときどき目撃談を報告しているという記録が残っているんですよ。350年以上たつ要塞の中で、今この瞬間も誰かが、あの灰色の服の女と出くわす準備をしているのかもしれません。
1901年のペストとンダベニ
南アフリカの人種隔離、アパルトヘイトといえば、1948年を思い浮かべる方が多いですよね。でも実は、人種を街の外へ追い出す試みはそれよりずっと前に始まっていました。1901年、ケープタウンの港でペストが発生しました。後に判明した本当の原因は貨物船に乗ってきたネズミだったのですが、当時の当局は見当違いにも黒人の港湾労働者を感染源だと決めつけました。そしてそれを口実に、市内に住んでいた黒人住民を全員、メイトランド近くの「ンダベニ」という新しい居住区へ強制移住させたんです。これが、その後数十年続く黒人居住区、つまりタウンシップ隔離政策の最初の例でした。アパルトヘイトが公式に始まったのが1948年ですから、この出来事はなんと47年も前のことです。一匹のネズミが生んだ誤解が、この街の人種隔離の歴史を半世紀近くも早めてしまったわけです。
ディストリクト・シックス — 取り壊されたまま建て直せなかった街
いま窓の外に見えるあの広い空き地、一見ただ工事が止まった土地のように見えますが、実はここにはもともとケープタウンでいちばん活気のある街がありました。名前はディストリクト・シックス。黒人、カラード(混血)、インド系、ユダヤ系の人々が一緒に暮らす、この街で最も多彩な場所でした。ところが1966年、政府はこの土地を「白人専用地区」に指定してしまいます。それから1982年までの16年間に、なんと6万人にのぼる住民がケープ・フラッツという郊外へ強制的に追い出され、彼らが住んでいた家や建物は一つ残らず取り壊されました。でも、ここにはどんでん返しがあります。この強制撤去が国際社会からあまりにも強い非難を浴びたため、政府でさえ、この空き地に計画していた白人向け住宅を建てるとは発表できなかったんです。だからこの土地は何十年もの間、ほとんど空き地のまま残っているんです。いま私たちが見ているこのがらんとした風景そのものが、暴力の痕跡であると同時に、その暴力が完全には成功しなかった証でもあるわけです。今はディストリクト・シックス博物館が、当時の街の物語を伝えています。
囚人船「ネプチューン」事件
1849年、大英帝国はオーストラリアで行ったのと同じように、ここケープ植民地も囚人を送り込む流刑地として使う計画を立てました。そこで囚人船「ネプチューン」号に囚人を乗せ、テーブル湾へ送り込んだんです。ところがこの計画は、ケープタウン市民の思わぬ抵抗にぶつかります。商人たちは船への物資の供給をいっせいに拒否し、労働者たちは囚人が船から降りること自体を阻止しました。こうしてなんと5か月もの間、ネプチューン号は荷を降ろすこともできず港に足止めされたんです。結局イギリス政府が折れ、船に乗っていた囚人たちはそのままオーストラリアへ送り返されました。歴史家たちはこの出来事を、この街で起きた最初の大規模な市民の抵抗と評価しています。一発の銃弾も撃たず、ただ協力しないというだけで、帝国の計画を頓挫させたわけです。
シグナル・ヒルの正午の大砲
毎日正午になると、この丘から大砲の音が一度鳴り響きます。初めて聞く人はびっくりするイベントですが、実はこの大砲は観光客のためのショーではありません。1806年にこの大砲が初めて設置されたときの目的はただ一つ、港に停泊するすべての船の航海用時計を正確に合わせることでした。今でこそGPSもスマートフォンもありますが、当時はそんなものあるはずもありません。ですから街全体、そして港のすべての船にとって、この大砲の音がそのまま標準時だったんです。そして驚くのは、この伝統が200年以上、一度も欠かさず続いていること。今この瞬間も、正午になれば必ずあの丘から大砲が鳴るでしょう。世界で最も古い時報の伝統の一つが、まさに私たちの目の前で続いているんです。
